9年前の3月11日の津波の映像は淀川区役所のロビーのテレビで観ました。その4日前に交通事故で亡くなった母の葬儀を終え、母との思い出や、おそらく人の生死や生きる意味等を考えながら、手続きのため戸籍謄本に記載されていた母の出生届のあった区役所で手続きに行った様に思えます。帰りに現在では町名と区の線引きも変更になり、一度も会ったこともない祖父が住んでいたであろう町の近くにも立ち寄り色々な思いを馳せ、考えさせられた一日でした。
 数日後、友人を介し被災地の建物調査があるので何日でも構わないので一級建築士の人に来て欲しい≠ニ、依頼がありました。何か自分にできる事があるのかと思いながら福島に3日、一旦帰阪し宮城に3度にわたってGW返上で5月末まで約40日間、毎日のようにある余震の中、仙台、多賀城、塩竃、松島、石巻、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡…被災建物調査や被災者の話を聞きました。真っ暗な建物の4階で太腿まで津波に浸かりながら一晩中赤ちゃんと過ごしたお母さん、渋滞中で身動きの取れないの高速道路上で津波が押し寄せ間一髪で前のトレーラーの屋根に飛び乗った人、屋根に登って津波を凌ぎヘリコプターで吊って救助された人、海上に多くの人が何かに掴みながら浮いているのが判っていながら撤退命令を泣く泣く受けた消防隊員…目を疑う様な光景、ちょっとした判断の差で生かされた話を淡々とする人…建築に携わる者として、4人の息子を持つ父として、一人の人として考えさせられることだらけの経験でした。
人は生きているのではなく、生かされているのだ≠ニ確信しました…母の葬儀に際し、母が畑で採れた野菜を分けたり声掛けしていた子ども達と溢れかえった参列者、多くの方が母から善意を受けたと、また母が息子がPTA等地域でボランティアに携わっていることを自慢げに周囲に話していたことを聞かされました。
自分が周囲にできる事はできる限りしよう≠ニ思った出来事でした。

 
津波で挽きぬかれた電柱の鉄線(石巻市) 南三陸町の防災庁舎             気仙沼の平野部